2017年02月13日

平磯の石垣


愛媛県西宇和郡伊方町にある故郷、平磯(ひらいそ)には、僕が生まれる遥か昔から、幾つの石が積まれているのか見当も付かない石垣が何ヶ所もあり、それらすべての石垣に使われている石の数を知る事は極めて不可能だ。
しかし、そのすべての石は、人の足によって運ばれ、人の手によって一つずつ、適石適所、計算されて積み上げられた事に間違いは無い。
その証拠に、石垣の隙間から染み出す雨水を吸って植物が育ち、その後ろでは小さな生き物たちが、石垣を集合住宅の様にして暮らしている。
そんな見事な石垣に囲まれた平磯で生まれ育った僕は心から思う。
「故郷、平磯は、二度として造る事が出来ない村である」と。
きっと、この先の遠い未来、コンクリートが割れても、アスファルトが剥がれても、今の世の人が死んだ後も、平磯の石垣は今の姿のままで残り続けるだろう。

「ひとつ、ひとつが、より永く。
一歩、一歩が、より遠く。」
石垣の隙間から、いにしえ人の声が聴こえてくる様な気がする。

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2016年03月29日

喜久家プロジェクト


故郷、愛媛県の佐田岬半島にある小さな農村「平磯」で、10年前から続けられている「喜久家プロジェクト」!
若者の少ない農村に、国内や海外から若者を呼び、農作業などを共に行い交流を深めるプロジェクトです。
今回そのプロジェクトが、NHKで取材されて、全国放送される事になりましたよー。
是非、ご覧下さい*\(^o^)/*

愛媛県最西端の日本一細長い佐田岬。
そこにあるふるさと伊方町での郷づくり「喜久家プロジェクト」。
明日30日、朝7:45からNHKで全国向けに放送される。
http://blog.goo.ne.jp/kikuya2009/e/21bc6166ef5598b47c219d45560358a6

#喜久家 #伊方町 #プロジェクト

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2016年03月03日

母校、三崎高校の存続決定!


以下の記事は、愛媛県立三崎高等学校の卒業生である、田村さんのfacebookの記事より抜粋したものです。田村さんは地元でパン屋をしており、また、母校の大先輩でもあります。

「皆々様の頑張りと支援のおかげを持ち、定員60名に対し 60名の志願となりました。大快挙です!
卒業生のみなさんも関心を持って三崎高校のブログをご覧いただき、寮もリニューアルし、土日も寮を開放していますので、保護者の皆様もご安心いただけると思います。周りの子供や保護者の皆さんに三崎高校を紹介していただければありがたいです。
「勝って兜の緒を締めよ」ではないですが、これをきっかけとして、これを始まりとして「三崎高校だからできる事」また生徒に「三崎高校に来て良かった」と思ってもらえる活動のお手伝いをしていきたいと思います。
地元を離れている方々も、教育振興資金の寄付、情報発信など、引き続きご支援いただけるとありがたいです。」

この記事を読んで、熱い志を持った三崎高校の卒業生である事を誇りに思いました。
日本全国の!いや、全世界の子供達!
最西端の最先端!三崎高校へ行こう!!

http://ehm-misaki-h.esnet.ed.jp/cms/

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#母校
#三崎高等学校
#最西端
#最先端
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2016年03月02日

犬神のガロ


ジブリ作品では、もののけ姫がイチバン好きだな^ ^
これは噂だが、元々、宮崎監督が決めていたタイトルは「アシタカせっ記」だったが、鈴木プロデューサーが宮崎監督に内緒で「もののけ姫」に変更してポスターを作ったらしい。でも、そのポスターを見た宮崎監督は、特に何も言わなかったらしい。
因みに、写真の白い犬は、故郷、伊方町平磯の柑橘を猪たちから守る犬神のガロである^ ^

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#ジブリ
#もののけ姫
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2016年01月15日

故郷、平磯


二千十六年の故郷平磯。
百年前に生きていた人たちが、心から眺めて見たいと願ったこの景色を、僕は今、易々と眺めている。
生きている。と言う事は、ただそれだけで尊い事なのでしょう。
百年後の平磯の景色を眺めて見たいと、心から願っても、それはもう不可能な願いですから。
だから、今僕に出来る事は、この景色を、百年後にここに立つ人の為に残す事でしょう。きっと百年前にここに立っていた人も、そう考えたに違いないですから・・・☆

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2015年02月13日

望郷


お正月、実家のある平磯村へ帰った。
人口50人に満たないこの村には、かつての天才たちが夢見た2015年になっても、スマホを持っている人が1割もいない。
そもそも、未成年者を含めれば、携帯電話を持っている人の方が少ない。かもしれない。
流行に流されない、粋な村だ!

アインシュタインは、コンピュータに支配された世界の”最後”を、想像の中で見てベロを出したと言うが、きっと、2015年の平磯をアインシュタインが見たら、ベロを引っ込めて息を飲むだろう!

もしも明日、世界が終わるなら、僕は最後の1日を、故郷、平磯で過ごしたい・・・☆

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2013年07月23日

2013・佐田岬の夏@


2013年7月16日
4日間のリフレッシュ休暇を頂いた僕は、実家がある佐田岬半島へ帰省した。
到着したのは午後6時、母親が経営するスナック銀河へ夕食を受け取りに行った。通常ならば、佐田岬の夏と言えばウニが定番なのだが、今年は台風やなんかの影響であまりウニが獲れないらしい。なので、その代わりに冷凍の蟹を受け取って実家がある平磯(ひらいそ)村へ向った。
ブンブンと草刈り機の音がそこら中の段々畑から聞こえるが、人影は無い。適当な場所へ車を停めて、徒歩で実家への道を歩いても、蝉がクルクルと回ってオデコに一度当たった以外に、誰一人としてすれ違う人無し。まさに神隠しのような村である。

実家に入って、扇風機をつけて、洗面所のバスタオルでベトベトの体を拭く間中ずっと、実家で飼っている子犬がギャンギャン吠えながら人の足にすがり付いてきた。メスのトイプードルで、毛はスウェーデン人の様に茶色い。
食事の準備をする間もずっと人の足にすがり付いてくるから、いよいよ邪魔になって軽く足で押すと、引っ繰り返ってまた立ち上がってすがり付いてくる。
何か余程の用件でもあるのだろうか。と思えば、僕がちゃぶ台の脇に座ってビールを飲み始めると、隣のソファーの上で仰向けに寝たまま動かなくなったから、死んだのかと思って腹を突くと、迷惑そうに目だけこちらへ向けて「スー」と鼻息を吐いた。

蟹を食べ終えて、たらふくビールを飲んで、ソファーに寝転がっていると母親が帰って来た。
母親が言うには、僕の部屋の軒下に蜂の巣があって、たまに部屋に入って来るから、用心の為に今日はそこで寝ろと言うので、ちゃぶ台の脇に布団を敷いて横になった。
ウトウトし始めると、枕元で丸まっていた犬が突然に起き上がって、畳を爪でガリガリやりだしたり、クルクルと横転し始めて騒がしくなった。どうやらゴキブリが居るらしい。
しかし、あんまり騒がしくて寝られないので、横転してきた所を捕まえて小脇に抱えると大人しくなったので、そのまま寝た。

翌朝、部屋の軒下を見てみると、アシナガバチが大きな巣を作っていた。毒は強くないが、刺されるとスズメバチよりも痛いらしい。
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いよいよ自分の部屋へは入れそうにない。
居場所も無いし、する事も無いので、さぁ、魚釣りへでも行こうか・・・続く☆
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2013・佐田岬の夏A


2013年7月17日
松山からの帰りがけに、釣具のフレンドで買った餌と仕掛けを持って、僕は早速大好きな釣りに向った。
場所は、地元でもそこそこに釣れるポイントとして知られている亀の首だ。よその人がその名前だけを聞けば、その昔に何かあったんじゃなかろうかと不審に思うような名前である。
ただ、そこそこに釣れるのは有り難いが、道路から磯までの急な山道を下るのは大変である。屈強な若者の健脚で踏ん張っても、磯へ降り着いた頃には膝がガクガクで立ってらんない状態になる。だから、まずは一腹をして回復を待たなければならない。それを待てずに慌てて釣りを始めて大きなチヌでも掛かった日には、チヌの引きに負けてそのまま海へチャップンである。

凍った餌を解かしつつ、ゆっくりと仕掛けを作って、さぁ本日第一投目を投げ込んで間もなく、グググと糸が引き込まれた。さすが亀の首である。しかし巻き上げてみると、ベラ(ギゾ・ギザメ)と言う不細工で不味い魚だった。これを高級魚だと言って刺身にして食べる人もいるらしいが、僕はどうしてもそうは思えない。身を裂いて見れば、嫌味な程に骨が緑色だからである。それに、体がやたらにヌメヌメしている。その上、疑いもなく針を喉の奥まで飲み込む為に、針が外しにくい。極めて不愉快な魚だ。だから、そいつが針を飲み込んだ時には、可哀相だが、首を折って直接取り外すしかない。そして、見せしめの様に海に捨てるのだ。すると、どこからか戦闘機の様なスピードで鷹が舞い降りてきて、そいつをさらって行く。
その光景が面白いから、例え針を飲み込んでいなくても、釣れる度に首を折って海に捨てる。多くの生命がその生涯を必死に生きる為に、他の命を奪うこの地球上で、他の命を弄ぶ唯一の生き物、それが人間様である。
ふと、その様なむごたらしい殺生を繰り返している内に、この「亀の首」と言う不気味な名前の裏に、何か本当に忌まわしい過去があったのではないかと思ったりもして、グルリと周囲を見渡したが、それらしい痕跡は見当たらなかった。

釣りを開始した午前十時から早七時間、陽は西側の山の向こうへ落ちたが、日頃日光に当たらないモグラの様な生活をしている僕の腕は、容赦ない夏の日差しで赤く焼けて、取り返しのつかない状態になってしまっていた。薄い長袖でも着てくれば良かったと後悔したが、もう遅い。
しかし、釣果の方はまずまずと言った所だろうか。メバル・カサゴ・グレ・カワハギ・ウマズラハゲなど。合計で二十匹程は釣れた。
さぁ、これからまた、あの足場の悪い急斜面を登る時間を計算して、本日はこれにて終了。と言う事に決めておきながらも、あわよくばと言う思いで、餌を付けた仕掛けを沖へ投げたまま帰り支度を始めた。すると、数秒後にチラと沖を見ると、今の今まで海に浮いていたウキが無いではないか!もしやと思い竿を立てるとグググと引きがあったので、慌てて巻き上げてみると、なんとアジが掛かっていた。これは面白いと、もう一度沖へ投げて数秒後、またウキが海へ吸い込まれた。結局、アジは四匹しか釣れなかったが、それでも最後に良い興奮を味わえた。
ギャンブルに興ずる人間を、時に人はダメ人間だと揶揄する事があるが、ギャンブルに興ずる人間の心理はよく分かる。
竿先から伸びる糸に繋がったウキが、海の中へ消える瞬間。そして、勢い良く竿を立てると、グググと引くあの快感。一度その興奮を味わってしまうと、もう釣りをやめる事は出来ない。ギャンブルにもきっと、それと似た興奮があるのではないだろうか。

手の届く範囲の枝に掴りながら、ようよう道路まで這い上がったが、あと十メートル遠ければ、釣った魚の内のどれかを山へ捨てようかと思う程に、キツイ急斜面だ。
出来る事であればモノレールを設置して頂きたい。それが無理なら、たった一本のロープでも構わない。
十代の頃であれば、息も乱さず駆け上がっていたのに、たった十年でここまで衰えるとは、情けない事だ。
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次回はゴムボートでも買って帰ろうかな・・・続く☆
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2013・佐田岬の夏B


2013年7月18日
鼻の頭を犬にペロペロと舐められて目を覚ますと、ちゃぶ台の脇で母親が朝ごはんを食べていた。
自分も起き上がって食べようとしたが、昨日の急斜面のせいで全身筋肉痛になっていたので、畳の上を這ってちゃぶ台の脇まで行った。
ちゃぶ台の上には、白ご飯とグレの塩焼きとメバルの味噌汁があった。昨日釣ったヤツだ。
グレの身を箸で摘んで、メバルの身をチュウチュウ吸っていると、母親が言った
「グレに針取られたやろ、料理してたら喉から針が出てきたわ」
「・・・うん」
実にのどかで、実にのん気な、朝の会話である。
この母親から生まれてもうすぐ三十年。二人の内で交わされた最新の会話である。
あと何年、あとどれくらい、母親とこの様な、のどかで、のん気な会話が出来るのだろうか。
年老いた母親を前に、魚の身を摘みながらそんな事を考えていると、なんだか鼻の奥がしょっぱくなってきた。

食事を終えて庭で一腹した後、やはりする事もないので、お墓参りへ行く事にした。
一歩歩く度に、いちいち足の筋肉がビンビンと痛い。
墓石を前に手を合わせて「お金持ちになりたい」と願っていると、墓石の後ろから、布製の袋で包んだラジオがザーと鳴っている様な音が聞こえてきたので、音のする方へ行って見ると、なんと古い墓石の段差の僅かな隙間に蜜蜂が群がっていて、出たり入ったりしていた。どうやら墓石の中に巣を作ってしまっているようだ。
先祖の墓は、何を差し置いても大事にしなければならない。疎かにしようものなら、たちまちその一家は不思議と衰退してゆく。しかし、今ここで箒や塵取りを振り回した所で、これはもうどうしようもないので、一旦引き返して母親に報告のみしておこうと思ったが、帰ってみると母親はエアコンの下で犬を抱いて寝ていたので、起こす程の事でもないと思い、自分もソファーに横になって、しばし昼寝をした。

夕方。
「オコゼの刺身があるから食べなさいよ」
と言い残して、母親は仕事へ行った。
僕はクッションに顔をうずめたまま
「グー」
と返事をした。
午後六時になり、村のチャイムが鳴り始めた。数年前までは「キンコンカンコン♪」の、学校で使うチャイムだったが、どうも不評だったようで、今ではオルゴールが「ポンポンポン♪」と鳴り、多少聞き心地の良いチャイムに変わっていた。
それでようやく目を覚ました僕は、夢の中で聞いた通りに、オコゼの刺身を目の当たりにした。
パラボナアンテナの様な大きな皿の真ん中に、鋭利な刃物で身を引き裂かれたオコゼが見せ物の様に置かれていて、頭と尻尾以外はこん盛りと千切り大根を被っていた。オコゼの顔をマジマジと見る機会がこれまで無かったので知らなかったが、オコゼとは、あの攻撃的なボデーの割りに、とても小さくてキラキラと光る目をしていた。但し、誉められるのは目だけである。目以外の顔は実にイカツイ。平な部分がなく、すべてが尖っていた。
ところで、肝心の刺身はどこにあるのかと皿を持ち上げたりしながら探していると、オコゼの上にこん盛りと被せられた千切り大根の上に、紙切れ程に薄い刺身が十枚程度並べられていた。それと、尻尾の脇の空いたスペースに置かれた丸い銀紙の上には、甲虫の幼虫ほどの肝が三つ程乗っていた。
この大袈裟にデカい皿の上に、なんと勿体無い。
しかし、味はそこそこに美味い。肝を乗せて食べると尚美味い。この大袈裟にデカい皿に乗せてまで食べるだけの価値はある。と思う・・・続く☆
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2013・佐田岬の夏C


2013年7月19日
とうとうリフレッシュ休暇も最終日を迎えてしまった。
果たして今日までの三日間で、平磯に住む人の内、何人と顔を合わせただろう。
そう言えば、昨日の墓参りの帰り、箒と塵取りを持った、見覚えの無い小学生の男の子が「こんにちわ」と声を掛けてきたので「こんにちわ」と返すと
「あなた誰ですか?」
と、人を不審者の様な目で見てきたから、自分の家の方を指差して
「あの家の人よ」
と言ったが
「あーそうですか」
と、それでも腑に落ちない顔をされた。だから、自分の名前を教えて、家に帰ってお父さんに聞けと言ったが、それでも「んー」とか「あー」とか言って、一向に帰らないので
「君は一体何をしてるんだ」
と尋ねると、夏休みの奉仕活動で、自分の家の周りを掃除していると言ったから
「どうせ誰も見てないんだから、もっと夕方の涼しくなってからすればいいじゃないか」
と言ってやると
「学校で時間が決まっているからダメなんです」
と強情を張ってきた。だから
「あっそ」
とだけ返して「んじゃー」と背を向けて帰って来た。
結局、会ったのはその子だけだった。

幼少の頃に遊んでもらった、おじいさん、おばあさん、もう一度顔を見たいけれど、わざわざ家へ尋ねて行く程の用件でもないので、こうして偶然の機会を待ちながら道を歩いてみるが、向こうは誰も歩いていやしない。
お盆か正月にでも、数日間道を歩けば相当の人に会えるかもしれない。ところが、こっちの仕事の都合でそれが出来ないのが残念でならない。
ただただ、現代社会の「生きる」と言う価値観への空しさと無情を感じるばかりだ。更には、自分自身の実力の無さに落胆するばかりだ。もっと、意味のある生き方をしたい。

そんな事をふと考えながらも、昼飯を食っていると、家の電話が鳴った。出てみるとイトコの兄ちゃんだった
「ワレの電話(携帯)は腐っちょる!」
開口一番にそう言われて、なんの事やらと聞き返すと、僕の携帯に何度も電話したが繋がらないと言う。なぜなら平磯の大部分は圏外だからだ。さすがのソフトバンクも佐田岬のどん詰まりまでは電波を送れないらしい。または、野生動物しか居ないとでも思っているのだろうか。
用件は、蜜柑ジュースをやるから、帰りに倉庫へ勝手に入って持って帰れと言う事だった。
僕は「はい」と承諾して電話を切った。しかし、貰うばかりでは申し訳ない。ただの甲斐性なしだと思われるのも癪である。
そこで僕は、実家を去る予定の時刻まで釣りをして、釣った魚をすべてイトコにあげる事にした。

時刻は午後二時、わざわざ片道15分の町まで行って、餌と氷を買い、すぐに届けて出発出来るように、平磯の浜へ降りて釣りをする事にした。
車で波戸の根まで下りて、先端にて準備をしていると、15メートル程先に浮いている真珠の筏の上に5人程の男子高校生が居て
「誰だ?誰だ?」
と騒いでいたが、わざわざこちらから名を名乗る程の相手でも無いので、放ったらかして釣りを始めた。
かなり潮が引いていて、コンディション的には良くなかったが、それでもイシダイとグレが立て続けに釣れた。
一時間ほどすると、車が一台下りて来た。どうやらよそから来た釣り客らしい。六十代頃の男性だった。
「釣れますかな?」
後から来た釣り客は、先客に必ずこう聞く。そして、例えクーラーボックス一杯に釣れていたとしても
「いやぁ、まだ釣れません」
と、先客は必ずこう返す。釣り業界における不思議な会話だ。
初老の釣り客は、それ以外には特に何も尋ねる事なく、僕の隣で準備を始めた。僕の方も、特に何を尋ねる事もなく、無言で釣りを続けた。
そうこうしている間に、先ほどまで筏の上に居た高校生たちがバシャバシャと陸へ上がって来たかと思えば、波戸の根の辺りで、とりあえず慌ただしく騒ぎ始めた
「やべぇ!携帯水没した!水筒も流れて行きよる!」
どうやら、海岸に置いていた荷物が、潮が満ちてきた為に海へ流れたらしい。
あんまりにも騒ぐので近くへ行ってみると、確かにスマホが海水でビチャビチャだった。持ち主と思われる高校生は
「防水パワー効いてねぇし!」
「ハハハハハッ!」
とか言いながら、自分の顔しか映らない真っ黒な画面を見て悲鳴を上げていた。だから、ちょいと貸してみろと取り上げて、カバーを外して適当にタオルで拭いてやったら、どうやら画面がついたらしい
「あっぶねぇ!携帯死んだかと思った!」
「ハハハハハハッ!」
とにかく、高校生なんてもんは、何が起ころうが大声で笑い合う。誰かの首でも転がり落ちない限り、ひたすら笑う。自分もそうだったから、よく分かる。
しかし、四十年以上も前に高校を卒業したと思われる初老の釣り人は、どうやらその気持ちを忘れてしまっているらしく。騒ぎに気付いて近づいて来た後
「潮水じゃけんのぉ、機械は潮に弱いけんのぉ」
と、いつまでも心配していた。
5人の内の一人が、僕のイトコの子供だったので
「誰か迎えに来るんか?」
と尋ねると
「歩いて帰る」
と言って、連中はまた先ほどのハプニングを大袈裟に笑い合いながら、歩き去って行った。

静かになった所で、僕と初老の釣り人は釣りを再開した。
陽が落ちて間もなく、またオルゴールがポンポンポン♪と午後六時を報告した。
初老の釣り人は、ひたすら海へ向ってジャミを撒きながら
「そろそろアジが入ってくる時間なんじゃけどのぉ」
と、一人言を繰り返していた。
そうして何度目かにそう呟いた後、初老の釣り人は引き付けを起こした様に仰け反ったかと思えば、グイグイとリールを撒き、割と静かにアジを釣り上げて、それを隠す様にクーラーへ入れたので
「アジきましたねぇ」
と僕が言うと
「おぉ、入って来た、へへッ」
と嬉しそうに笑い
「もっとこっちへ投げなさいや、アジが来とるけん!」
と言ってくれたので、お言葉に甘えて投げる方向を変えると、ギュンとウキが沈んで、グググと引いた。

それから数十分は、まるでお祭りのような騒ぎだった(糸が絡んだと言う意味では無い。※釣り人ジョーク)。

そこそこの釣果に胸を張ってイトコの家へ乗り込むと、台所におばちゃんが居たので
「魚釣って来たけんあげるよ」
と差し出すと
「きゃっ!でぇぶ釣ったのぉ」
と驚いていた。
そこへイトコの兄ちゃんも入って来て
「ワレ今日仕事かい」
と聞くので、明日の夕方からだと言うと
「ほんなら今晩はまだ帰らんでええの」
と言いながら、冷蔵庫からビールを取り出して来て、無理矢理飲まされた。

と言う事情により、帰って一晩ゆっくり寝てから仕事へ行こうと考えていた僕の作戦は破れ、そのまま朝まで、イトコの兄ちゃんの「フィリピンでの豪遊伝説」とか言う話を聞かされ続けたのであった・・・。

一見、物静かな村に見えるが、入る所へ入れば、実に騒がしい村だ、平磯と言う村は・・・☆

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赤ジャージの詩人・河野広










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2013年06月23日

僕の故郷がテレビに出ま(した)!


テレビ愛媛の「ふるさと絶賛バラエティーいーよ」
と言う番組で、僕の故郷である、西宇和郡伊方町平磯のあるプロジェクトが紹介されています。
その名も「喜久家プロジェクト」です☆
詳細は、放送を見ていただいた方が分かり易いと思いますが、このプロジェクトは、若者が少なくなった田舎の村に、世界中からボランティアとして若者を集めて、蜜柑の収穫などの農業体験をしてもらおうと言うプロジェクトらしいです。
僕も実際に放送を見ましたが、相当良かったです。永久保存版です。
レポーターとして、テレビ愛媛のアナウンサーの人と、なんとあの「ピカルの定理」のハライチの岩井さんが出ていました。
岩井さんが、終始「道が狭いですね」とツッコンでいたのが面白かったです。

それから、この喜久家プロジェクトの仕掛け人は、実は僕のイトコの浅野と言う人です。テレビにも出てましたけど、終始ニコニコしていて気持ちの良い人です。
ただ、僕がたまに帰省した時には
「ワレ蜜柑好きなだけやるけん、帰りに市場に蜜柑出荷しちょっちくれや!」
と言われます。
よその人が聞いたら言葉がキツイと感じるかもしれませんが、田舎の人はどこも大体こんな感じで、遠慮のない喋り方をします。

それから、最初に道案内をしていたおばあちゃん。
今でこそ衰えていますが、僕が小学校に入る前頃はめっちゃ怖かったです。僕が友達と二人で、勝手に人の家に入ってファミコンのソフト盗んでたら見つかって、箒持って追いかけられました。

この番組を観て、僕も地元の為に何か出来ればなぁと、改めて思いましたが、今の僕にはまだお金もアイデアも無いので、ボチボチ考えていこうと思います。

それから、見逃した人の為に再放送があるんですって!
何度かあると思いますが、確実なのは6月27日の深夜1時10分かららしいです。
気になった方は是非、テレビ番組表で
「ふるさと絶賛バラエティーいーよ」を探して、予約録画してみてください!!
ただ、テレビ愛媛ですから、愛媛県外の人は、とりあえず27日までに愛媛県に友達か親戚を作って、録画してもらってくださ〜い・・・☆

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赤ジャージの詩人・河野広
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2013年05月04日

佐田岬の春・収穫編@


2013年4月16日
三日間ほど休みが取れたので、実家のある佐田岬へ正月以来の帰省をした―。

早朝六時にアルバイトが終わったが、前日の夕方から働いていて眠たかったので、とりあえずは昼前まで仮眠を取る事にした。
焦る必要は無い。これから三日間は自由な身体なのだから、寝ていようと起きていようと自分の勝手だ。今目の前を歩いている女子大生が、これから自分の部屋に遊びに来ても良いと言うのなら、実家へは帰らずに、そうしても構わない。それくらい、心身共にすこぶる余裕であった。

夢から覚めると、外は快晴だった。爛々としていた。
前日に記したメモを見ながら荷物を手早く鞄に詰込んで準備を始めた。もはや自分の気持ちはもうこの街にはない、西に100キロ、佐田岬半島にあるのだ。

三崎の町に入った頃には、もう夕方だった。
シンボルの風車が山の頂上でクルクルと回り、まるで時を動かしているかの様に、見る見る内に白い空がピンク色に変わり、やがて濃い赤を一瞬見せて灰色になった。

実家のある平磯に入ると、道路際にギッシリとバリケードの様にコンテナが並べられていた。ゴ〜ォ〜と鳴るモノレールのエンジン音が、上の山からも下の山からも聞こえた。
つい十年前まで、このモノレールのエンジン音で目を覚ましていた自分。慣れなのか、条件反射なのか、今でもこの村に帰って来てモノレールのエンジン音を聞く度に、永い眠りから覚めた様な気持ちになる・・・。

車を停めて大荷物を抱えて実家への道を歩いていると、早速お声が掛かった
「ひろしちゃん!」
農家をしているイトコの兄ちゃんである。
残念だ―。
なぜなら、この人に自分が帰省している事がバレると、昼夜に関わらず呼び出されて、昼間は山仕事、夜中は話相手をさせられる。
「ワレ明日蜜柑山手伝え!ワシにご奉仕しておけば悪い事は無い!」
その言葉を聞いた途端、荷物がズッシリと重みを増した様に感じた。
こうして、僕の自由な三日間は幻となったのだ・・・つづく☆
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佐田岬の春・収穫編A


2013年4月27日
朝八時、自分は魚釣り用に持って帰っていた古いジャージを着て、イトコに指示された蜜柑山へ向った。道には大量のコンテナが積み上げられていて、その横でスズメバチの親玉みたいなモノレールのエンジンがギュンギュンと威勢良く鳴いていた。
ギアを後進に入れてレバーを引くと、ゴ〜ォ〜と大きく鳴いて、斜面に這わされた四角い鉄の上を、歩くよりも遅い速度で滑り降りた。
1分程乗っていると、蜜柑の枝を掻き分けて出て来たイトコのおばちゃんが右手を挙げて「はいっ!」と号令を出したのでレバーを戻してエンジンを切った。
「連休かや!」
おばちゃんにそう聞かれて、確かに連休だが下手な言い方をすると明日もこき使われそうなので、詳しい日数は言わずに、今日だけ手伝えると念を押した。
イトコのおばちゃんの他にも、隣の村のおばちゃんが一人居た。それからもう一人、ボランティアの学生さんが居た。アメリカ人の男子大学生だった。
日本に伝わる天狗伝説は諸説あるみたいだが、僕が知っている伝説ではその昔、戦争中に日本を侵略しに来たアメリカ人が山の奥に潜伏して村を攻めて来た事から生まれたらしい。つまりは、山の奥深くには鼻が高くて顔が赤い大きな男が居る。それが天狗伝説の始まりの一つである。高下駄や扇の由来は知らないが、おおよそ戦利品、つまりは侵略成功の証だろうか。
確かに、モノホンは見れば見る程に鼻が高い。自分も日本人にしては少しは高い方だが、モノホンの前に出たらマッキンリーと富士山だった。
「ハロー」
と自分が声を掛けたが、早朝のせいかウケはいまいちだった。おまけに「アナタダレデスカ?」と不審な目をして聞かれた。その昔であれば、山でアメリカ人に会ったら「アイム・ジャパニーズ・・・ユー・キル・ミィ?」と言うのが妥当だったのかもしれない。しかし、今日の開けた国際社会にそんなややこしい言葉は必要無い。
「トゥデイ・オンリー・OK?」
そう言うとアメリカ人は
「うん・・・」
と言って、コンテナを抱えて去って行った。
日頃、松山では一升瓶より重たい物を持った事が無い自分は、清美タンゴールの入ったズッシリと重たいコンテナを二〜三回うずんだ(持ち上げた)だけでヒーフー言った。
方や、屈強なアメリカ人は息一つ乱さずに、コンテナを抱えて枝の間をズンズン歩いた。「お前のそれはポップコーンかい?」と言ってみたかったが、そんな余裕はもう無かった。
昼休み。
アメリカ人はフォークで米を食べていた。タンクみたいにデカい水筒から直に水をガブガブ飲んでいた。Tシャツの袖を肩で巻いて白い産毛をキラキラさせて、ケビン・コスナー気取りでコンテナにもたれ掛かっていた。
昼飯を終えたおばちゃんたちが、草の上で引っ繰り返って寝始めたので、自分はアメリカ人に是非聞いておきたい事を聞いてみた。
「最近火星の調子はどうかな?NASAは宇宙人と内緒で接触してるんでしょ?」
するとアメリカ人は、グルリと目を回して呆れた表情を浮かべた後で
「アナタバカデスカ?」
と返して来た。ファックユーレベルに失礼な発言だったが、自分には、アメリカ人が宇宙に関して隠し事をしていると言う疑いがどうしてもあったので、スルーして更に問い詰めた
「月の裏側にNASAの基地があるんでしょ!?もう火星にはアメリカ人が何万人も住んでいるんでしょ!?」
しかしそこまでズバリ聞いても、アメリカ人は一切顔色を変えずに「ウエイ!ウエイ!」と言いながら、何やらスマホをいじり始めた。自分は内心、いよいよオバマと宇宙人とのツーショット写真が出るのではないかと期待していた。ところが、アメリカ人がスマホの画面に表示して見せてくれたのは写真ではなく、何ともけったいな日本語だった。
「逸話」
アメリカ人は自分にそれを見せた後で
「エイリアンハ・・・アメリカセイフガツクッタ・ウソデス」
とだけ言って、またケビン・コスナー気取りでコンテナにもたれ掛かったので、それ以上は何も聞かなかった。
午後もひたすらに働いて、久々に良い汗を流した。自分が日頃従事している夜のカラオケ店員が、いかに体に悪い仕事であるかが改めてよく分かった・・・☆
山.JPG

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佐田岬の春・収穫編B


2013年4月28日
昼前に、モノレールよりもうるさい母の声で目を開けた時、体をベッドに縛り付けられている様な感覚がした。筋肉痛だ。
ようよう食卓の前まで辿り着いて、皿の上に乗っていた小魚のから揚げを齧った。美味しかった。
母曰く、小魚のから揚げは二度揚げすると尚美味しくなるらしい。
自分はその話を聞いて、是非今夜もこれを食べたいと思い、午後は釣りへ行く事にした。
本当なら穴場の磯へ下りたい所だが、筋肉痛が酷いので、根元まで車で行ける平磯の防波堤へ下りて釣りを開始した。
すると思いのほか入れ食いだった。サイズは小さいが、餌を溶かす暇も無くツバ黒ほどのメバルが三匹釣れた。やはり佐田岬の海は掟破りだ。
そのまましばらく釣りをしていると、上からトラックが一台下りて来た。消防団の団長だった。子供の頃から知っている人だけど、もう60に近いのだろうか、上から頭を見ると、食べ終わったカルボナーラの皿みたいに、大胆にハゲている周りに白い毛が薄い渦を巻いていた。
団長は買い物袋一杯のデコポンをバケツの横に置いて
「味は分からんがど!酸いか甘めか!」
とか言った。それから昔の話を少しした後で
「ワレ地元の人間ながやけん、デカイ顔して釣りせぇよ!」
とか言って去って行った。コソコソ釣りをしているつもりは無いのだけど、気持ちが嬉しかった。
その日は結局、釣りを始めて間もなく引き潮に変わったので、メバルが9匹しか釣れなかった。村へ上がると、僕が釣りをしていた事をみんな知っていて
「なんちゃ釣れりゃせんろがやひろし!」
とすれ違う人皆に聞かれたから
「メバル釣れたよ」
と毎回答えた。
本当は、母にから揚げにしてもらって自分が食べようと思っていたけど、何か気が変わって、イトコのおばちゃんに全部あげた。バケツを覗き込んだおばちゃんは
「こんめのぉ」
とだけ言って家の中へ入って行った。
言いたい事を言ってくれるではないか。
しかしこの緊張感の無い感じがたまらなく好きだ。
平磯が好きだ。
そう改めて実感出来た帰省だった。

結局手ぶらで家に帰って来て、庭で犬と遊びながらタバコを吸っていると、イトコの兄ちゃんから着信があった。
「ワレ明日松山帰る時に市場に蜜柑持っちいっちくれんかや!荷造りするけん今から倉庫まで来いや!」
「はい」・・・☆
庭.JPG

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赤ジャージの詩人・河野広
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2013年01月15日

里帰りの記録


2012年の暮れから2013年が明けてしばらくまで、世間の皆様の為に、毎日休み無く懸命に働きました。
そんな僕にもやっとお正月が来たのは、1月10日の事でした。
朝早く松山のアパートを出て、故郷の佐田岬半島へと帰りました。僕の実家は、西宇和郡旧三崎町の平磯と言う小さな村にあるのです。
午前十時頃に三崎町について、四国最西端の伊予銀行でお金を降ろしました。(三崎町にあるモノはすべて四国最西端である)千円札ばかりを大量に降ろしたので、財布がパンパンで折り畳めなくなり、そのまま手に持って車まで歩きました。車に戻ってからは、早速お年玉造りです。予め買っておいた封筒に、歳の順に千円札を詰込んでいきました。合計8袋。庶民が一ヶ月間良い飯を食える金額でございます。
実家のある平磯は、その伊予銀行がある町からやや離れていて、山を二つ程越えないといけません。車でも30分は掛かります。
調度今は蜜柑の収穫の時期なので、平磯に入って車を降りると、山は見渡す限り蜜柑だらけです。「ゴ〜ォ〜」とモノレールがエンジン音を立てて、そこら中の山を駆け回っていました。
実家に帰る前に、道路端にある親戚の家を訪ねると、イトコの男が一人でカレーを食べていました。男が言うには、子供たちは皆、それぞれの家に居ると言うので、適当にそこへお年玉の入った封筒を並べて直ぐに実家へ帰りました。
実家へ上がると、飼い犬のトイプードルが後ろへ引っ繰り返らん勢いで膝に飛びついて来ました。よく見ると、オデコの辺りが白くなっていました。母親が言うには、美容院に連れて行くのが面倒だから、自分でハサミで切ったら切り過ぎて白い肌がむき出しになって不細工にしてしまったらしいです。確かに、見れば見る程イタチみたいで不細工でした。
夜、遅い正月のご馳走を頂いた後、犬と一緒に暖かい部屋で毛布に包まっていると、次から次にリンリンと電話が鳴り始めました。その度に、毛布を出て電話口に行くと、昼間にテーブルの上に並べたお年玉のお礼の電話でした。一度に話が着けば良いのですが、こう立て続けに方々から電話があると、その度に相手の調子に合わせて話をしなければならないので弱りました。自分が小さい頃、親戚にお年玉を貰う時にその人が「もろたもろた言われんで」と言っていた意味がやっと分かりました。
翌日、昼過ぎに起きて、日の当たっている内にお墓参りに行きました。自分が小さい頃に一緒に遊んでもらったり、怒られたりしていたお爺さんやお婆さんたちが、今はこの羊羹みたいな四角い石の下に居るのです。そう考えると、ここは実に暖かい場所です。しかし、または墓石の下から白い手が出てきて、手招きをする様にまた一人、また一人と村人をさらっていく恐ろしい場所の様にも思えます。自分も何れはこの石の下に入るのだろうか、さぁ、今はまだ想像も出来ません。
夜、昨日の電話である人とある約束をしたので、道路端の親戚の家へまた降りました。中へ入ると声のデカいおばちゃんがコーヒーを出してくれました。今から飯を食うから要らないと何度も言ったのに「なぁ〜し、かもかや!コーヒーぐれぇ!」と言うので、頂きました。それを飲んでいる間に、次から次に人が入って来ました。今晩の約束は、親戚の家族と食事に行く事だったのです。
平磯から車一台に5人程で乗って、伊予銀行のある三崎の町へ行って食事をしました。食事中に話す事は、昔の話ばかり。代々繰り広げられてきた事ではありますが、今更とうに済んだ事を話して何が面白いと思える事でも、その当時を知る人が集まって話すと、やたらに面白いから不思議です。
食事が済むと、子供たちを返して、僕の母親がやっているスナックへ行きました。意外に客が多くて驚きました。
色々な人の話を聞いている内に、今から約40年程前の話まで遡りました。到底30前の僕がついていける話ではありませんでしたが、たまに知っている人の名前が出る度に、耳がピクリとなりました。
今から40年程前、男子高校生は学生鞄にナイフを入れているのが当たり前だったそうです。また、ここぞと言う日には、家から日本刀を持って学校へ行き、いざその時にはそれを振り回して暴れたそうです。
恐ろしい話です。
時代でしょうか、それとも、男が弱くなったと言う事でしょうか。聞いた話では、男性と女性では遺伝子が違うらしく、男性がXY染色体で、女性がXX染色体だと言います。つまりXYとXXが結合して、男女どちらかが生まれるのですが、見れば分かる通り、Y染色体は男性にしかありません。と言う事はつまり、Y染色体は結合する度に欠損していっているのです。と考えるのは、男の言い訳でしょうか。

ともあれ、久しぶりに良い正月休みを過ごせて、大変に有意義でした。
またいつこんな正月が来るでしょうか。楽しみです・・・☆

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赤ジャージの詩人・河野広





posted by 河野 広 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐田岬のすゝめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月02日

佐田岬での三日間@


2012年10月29日
昼前に松山のアパートを出て、実家がある佐田岬半島へ向った。途中、釣具のフレンドでエビと針を買った。二時間程で到着したが、そのまま実家へは帰らずに三崎のフェリー乗り場近くの防波堤で釣りを開始した。普段、基本的に夕方六時から朝六時まで働いているから、太陽はもはや宿敵だった。
夕方五時頃、宿敵の太陽は沈んだけど、昼の二時から釣りをしているのに今の所の釣果はゼロ。五百円玉くらいのカワハギが二匹釣れたけど、可哀想だから海に返した。久々の釣りで勢い良く釣り場へ乗り込んだものの散々な目に遭い、とうとうイジけて餌のエビを海に投げ始めた。そうしたらチャプチャプとどこからか魚が集まって来てエビを食べていたから、これは大変だと針を投げ込むなりグググと引き込まれて思わず立ち上がった。ようよう引き上げると20センチ程のアジが掛かっていた。それから約二時間は落として上げての繰り返しで、結局20匹程そこそこのサイズのアジが釣れたから満足して引き上げた。
そう言えば、太陽が沈む前に三崎の山を眺めていると、空にポツンと光る物体が現われた。星か飛行機かと思ったが、昼間の星にしては光っているし、飛行機にしては光が点滅していないし、それに物凄いスピードで移動しているように見えたから、おそらくUFOに違いないと確信した。物体はやがて、シルバーから赤に色を変えて、雲の無い青空で消えた―。思えば約八年程前にも、この場所で釣りをしている時に同じような物を見た。佐田岬半島の上空は、沖縄県の普天間基地と山口県の岩国基地との直線ライン上にある為、米軍の戦闘機などが頻繁に上空を通過すると言うから、或いはそれなのか、もしくは、UFOの飛行ルートにも当たっているのか、とても興味深い事だ。
防波堤のヘリでジャブジャブと手を洗った後、母親がやっているスナックへアジを持って行った。そしたら引き換えに、晩御飯としてウニを皿いっぱいくれた。これから何にもない不気味な村で、一人でこれを食べながらビールを飲んで一晩を過ごすのだ。
三崎のフェリー乗り場から国道を少し走り、細い農道へ入って二つ程山を越えた所に、僕の実家がある「平磯」と言う小さな村がある。今から十年程前、僕が高校生の頃には、毎晩の様に僕の家には三崎高校の不良が集まっていたけど、今ではあまり人の出入りは無いようだ。蜜柑の収穫の時期になると、ボランティアの人たちが国内外から多数訪れる様だが、それ以外の時期は実に閑散とした有様だ。しかし、もしも明日世界が終わるとしたら、僕は最後の一日をこの村で過ごしたい。何にも無いんだけど、世界中でここにしかないモノがある。つまりはそれが故郷と言うモノだろう。
実家の門を開けると、誰が近づいても同じようにワンワンと吠え続けるトイプードルが居る。半年に一度くらいのペースで実家には帰っているけど、その度にしばらく匂いを嗅がせないと僕だと分かってくれない様で、荷物を部屋に運ぶのが先か、番犬に“挨拶”するのが先かで迷う。
ようやく落ち着いて、テレビをつけてビールを一口飲んで、さぁこれから三日間何をしようかと考えながらウニを食べた。大変美味しかった。よくよく考えてみれば、これ(新鮮な魚介類)があるから半年に一回は帰りたいと思うのかもしれない。もしも晩飯がカップラーメンだったら、僕は同じく故郷を愛していただろうか・・・。だけど、実際カップラーメンじゃないんだから、そんな事はどっちでもいいか・・・☆
posted by 河野 広 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐田岬のすゝめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

佐田岬での三日間A


2012年10月30日
昼前に起きると、朝昼兼用のご飯が用意されていた。昨日帰って来た時には人を泥棒の様に警戒していた番犬も、一晩経てば、人の足をアゴ置きの様に使っていた。
ご飯を済ませた後、暇つぶしの為に持って帰っていた映画のDVDをしばらく観てから、一人でお墓参りに行ってみた。父親と曾祖母の墓は分かるが、その他に入っている人は顔も名前も分からない。だけども小さい頃からの習慣で、毎回二ヶ所の墓をお参りしている。是非とも、顔と名前と自分との関係を知りたいものだ。そうすれば墓参りの気合の入りようが多少は変わるだろう。
夕方、今回の帰省で最も用事らしい用事がある時刻が迫ってきた。大洲市に住む友人から預かっていたドラムセットを本人に返す用事だ。借りていたのではなく、とても大きな物を自宅で預かっていた訳だから、当然向こうが取りに来る事になっていた。
予定時刻の少し前、国道で待っているとその友人から電話が掛かってきた。
「三崎にじゃこカツ発祥の店があるらしいけど、どこにあるん?」
じゃこカツが売ってある事は知っていたけど、発祥の店など知らなかったから、とりあえず母親に電話で聞いて分かり次第折り返す事にした。しかし、三崎でスナックをしている母親でも知らないと言う。まぁ大体、自分の噂を自分で流す奴は居ない様に、噂って言うのは、本人の知らない所で勝手に広がるものだ。と言う訳だから、意外でもなく当然に、三崎の人は三崎の噂を知らない。そしてその噂が本当なのか嘘なのかを突然に聞かれても知らないのだ。
ただ、ドラムを取りに来たついでだとは言え、せっかく三崎に来たのに美味しいじゃこカツの一枚も食べさせずに帰すのは不憫なので、母親の紹介で、フェリー乗り場近くにある「清海」と言う店で50枚程じゃこカツとじゃこテンを揚げてもらい、友人を待った。程なく到着した友人二人に揚げたてのじゃこカツとじゃこテンを食べさせると、旨い旨いと叫びながら野良犬の様に貪っていた。あんまり美味しそうに食べるので、僕も一枚ずつ食べてみると思った以上に美味しかったから、その後三人で包み紙をバリバリ鳴らしながら奪い合って食べた。
そうこうしている内にスッカリ暗くなってしまった夜道を三人で歩いて家まで行き、帰りにはゴソゴソと大荷物を抱えて歩くその姿はコソ泥みたいだった。無事にドラムセットを車に積み終えた時友人が
「晩飯奢るからこれから一緒に大洲まで来てドラムを教えてくれないか」
と言うので、どうせ暇だから一緒に大洲まで行く事にした。一時間半程で着いたのは、山道の途中にあるプレハブ小屋だったが、中に入るとソファやスピーカーもあって、まぁまぁなスタジオだったから驚いた。早速そこにドラムを運び込んでセッティングをして、さぁ何を始めるのかと思うと、ドラムの基本中の基本であるエイトビートを叩ける様に教えてくれと言う。しかも時間は午後十一時までの二時間しかないと言う。それを越えると苦情が出るから駄目なんだと言う。僕は、高校時代に二年程バンドを組んでドラムをやっていたから、エイトビートくらいは叩けるけれど、暇な高校生でもエイトビート習得までに一週間は掛かった。それを三十を越えたドラム経験の無い大人がたった二時間でと言うのは極めて困難な話だが、本人がやると言うのだから仕方ない。とにかく、手取り足取り、かくかくしかじか教えてみた。すると二時間後、僕の教え方が良かったのか、或いは本人のセンスが良かったのか、どうにかエイトビートを連続二回まで叩けるようになった。
因みに、その友人と言うのは、大洲及び松山を中心に活動している「BAXWHEEL」と言う二人組だ。
その後、何だかんだで家に辿り着いて床についた時には、もう朝の五時だった・・・☆
posted by 河野 広 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐田岬のすゝめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

佐田岬での三日間B


2012年10月31日
何だかんだで早くも最終日になってしまった。今晩寝たら明日の昼にはまた松山へ戻り、退屈なバイト生活を再開する事になる。そう考えると、いよいよ憂鬱だ。なぜ生きているのか、何の為に生きているのか、疑問でならない。
昨日と同じように昼前にご飯を食べた後、少しダラダラしてから散歩に出ると親戚の人に呼び止められて、その人の部屋に上がった。三年程前に大阪から帰って来て、実家の蜜柑農家を継いでいる四十代の男性だ。蜜柑畑の一部を切り開いて新たに建てたと言うその部屋の中は、この小さな村には不自然なほどに綺麗で現代風で、妙に居心地が良かった。
その後、その人と日が暮れる頃まで色々と話をした訳だが、その話の中で、僕はこれまで二十九年間知らなかった事実を知った。それは、僕とその人と、更にはその人の母とその人の兄弟四人(またその子供たち多数)とは、血が繋がっていると言う事実。僕はてっきりこれまで、自分の母親とその姉(叔母)の二人しか、この世の中で自分と血が繋がっている人は居ないと思っていたので、正直ビックリした。それは、成人した後に自分に兄弟がいる事を親から告げられる程の驚きだった。それと同時に、家族が突然増えた様な感じがして、多少嬉しくて気持ちが大きくなった。
ところで一体どう言う繋がりなのかと、昔(昭和初期頃)の事も聞いたけど、ややこしくてあまり分からなかった。とにかく昔の人は子供を沢山産んだんだそうで、曾祖母は十人近く子供を産んだとかで、A4用紙に隅から隅までギッシリとその繋がりを書いてもまだ足らない程にややこしいみたいだから、今回はとりあえずそう言う事として終わらせた。つまりは自分は凄まじい枝分かれの先に居る様だ。
その他に話した事は、そろそろ三十になるのだから、村に帰って来て蜜柑山で働かないかと言う話だった。確かに、今は情報社会だから、どこで生活していてもパソコンさえあればそれなりの事は出来る。作家の夢だって追える。週末には二時間で大街道まで行って路上詩人だって出来る。わざわざ松山で安くない家賃を払う為に退屈なバイト生活をする必要は無いんだ。しかし、先の事を考えた時に、一人で農業をすると言うのは体にも気持ちにも負担が大き過ぎる。嫁さんでも居れば多少は違うだろうけれど、農業をしに田舎まで着いてきてくれる女性なんか、現代の世の中に居るのだろうか。
瀬戸のアグリトピアと言う宿泊施設で、毎年集団お見合い大会が開催されているみたいだけど、それにはちょっと恥ずかしくて行けない。
まったく、大人になるって事はろくな事がない。だけども何を決断するにも三十がギリギリだろう。三十五にもなれば誰も何も言ってくれないに違いない。気に掛けてくれている内に、決断するべきだろう。
と言う訳で、僕と結婚しても構わないと言う、十六歳から二十八歳までの容姿端麗でスマートで健康な女性の方が居ましたら、ご連絡お待ちしてます(笑)・・・☆

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posted by 河野 広 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐田岬のすゝめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月31日

焼却式(黒猫)


(前書き)
先日、自分の中学・高校時代の出来事を書いた自伝小説「黒猫窃盗団」を、旧友と中学時代の恩師に配りました。ところが数日後、その恩師より、小説の内容に問題があると呼び出しを受けました。その恩師の名前はY先生と言います。
後日、三崎のY先生の自宅を訪れた所、内容に個人情報が多すぎると言う事で約1時間40分にも渡りお説教を受けました。そして、後日全関係者立会いの下、小説と資料諸々を焼却処分する運びとなりました。

2012・8・23
Y先生の自宅に、僕と旧友二名が集合しました。四人が集まるのは中学時代の理科室以来の事で、それから二時間ほど、Y先生が作ってくれた焼きそばを食べながら昔の話で盛り上がりました。
一通り話をした後で、庭へ出て焼却式を執り行いました。四冊の同じ小説と、僕の部屋にあった当時の貴重な資料を火の中へ入れて燃やしました。その後、四人で花火をしてしばし盛り上がりました。
すると、無事に焼却式も終わり、ホッと一息ついたY先生は、やおら我々に銭儲けの話を持ち掛けて来ました。
大昔、三崎のある地区に海賊が住んでおり、その海賊が盗んだ財宝(大量の小判)がその地区の山に埋まっているらしいのです。それをこれからみんなで探そうじゃないかと言う話でした。欲深い我々はその話に飛びつきました。
Y先生の調べによると、三崎のある地区の山の平な場所に、縦七個×横七個=四十九個の小判が入った壷が並べて埋められていると言うのです。

1996〜2002年頃
我々黒猫窃盗団は数多くのモノを盗みました。そして今、黒猫窃盗団は次なる獲物を発見しました。海賊の財宝です。もしも見つかれば、一生王様の様な暮らしが出来るに違いありません。
ありがとうございます。
財宝最高!
海賊万歳!
・・・☆

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赤ジャージの詩人・河野広
posted by 河野 広 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐田岬のすゝめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

1983


1983は、僕が生まれた年です。
僕は、大阪府岸和田市で生まれましたが、三年後、大人の都合で愛媛県西宇和郡三崎町で生活する事になりました。でも、実際それで良かったと思います。結果論ですが、恐らく岸和田よりも三崎町の方が、僕の体質に合っていたと思います。
1983は、昭和58年、昭和末期でした。
今とは違い、大変景気が良かった頃でした。しかし、その頃僕が住んでいた家は、家中の雨戸を締め切って電気を消しても、何本も光の筋が部屋の中へ射し込んで来る程に隙間だらけでした。大雨が降った日には何箇所も雨漏りして、バケツや鍋や焼かんを畳の上に並べました。それでも足りなければ茶碗も並べました。
今の十代の人たちは、テレビでしか見た事無いと思いますけど、家の電話はダイヤル式の黒電話でした。掛かってくるととても大きな音がして、一々人を驚かせる電話でした。まず最初に「チンッ!」と鳴って、その後延々「チリリリリリリン」と鳴りました。そして、等々こっちが面倒臭くて受話器を取らなかったら、最後にまた「チンッ!」と鳴って鳴きやみました。蝉で言えば油蝉くらいやかましいです。
テレビは勿論正方形のブラウンカンで、リモコンがありませんでした。画面の横にボタンがいっぱい付いていて、チャンネルを変える時も、ボリュームを調節する時も、つける時も消す時も一々テレビの前まで行かないと駄目でした。父親が携帯テレビを持っていましたけど、今のとは比べ物にならない大きさでした。漢和辞典くらい大きな本体は同等の石程に重く、突き出したアンテナは菜箸程に長く伸びていて、肝心の画面は長い方の側面にありましたが、ツタヤのカードの半分くらいの大きさで、一々ノイズが走るし白黒だったし、今考えれば覗き穴よりも具合が悪かったけど、当時の僕はそれにクギヅケになっていました。
遊ぶ物は、駒とかヨーヨーとかメンコとかローラースケートとかミニ四駆とかありました。小学校の高学年になってからは、ゲームボーイとファミコンを買ってもらいました。今の玩具を知る子供には退屈な物ばかりだけど、当時は当時で遊び道具に関しては割りと充実してました。
中学生になった頃(1996)、当時では割と上等なテレビに買い替えました。CDラジカセも、黒光りするカツオくらい大きなのを買いました。雨漏りもしなくなったし、隙間風もなくなったし、我が家はほぼ完璧になりました。でも相変わらず黒電話はそのままで、僕にとっての女子中学生とのささやかなコミュニケーションツールは、黒電話と文通くらいでした。だけどそれはそれで良かったと思います。もしも当時携帯電話があって、気軽にメールとか出来てたら、理性に乏しい中学生の僕は毎晩あちこちに余計なメールをして、翌日から下を向いて歩かないといけなくなっていたに違いありません。人の気持ちや、人の考えている事は、あまり知り過ぎない方が良い場合もあります。同じく、自分の気持ちや考えている事も、あまり表に出し過ぎない方が良い場合もあります。くすぐったいぐらいが調度良い場合もあります。
当時、そんな僕の部屋を占領していた物は、ビデオテープとカセットテープと文通の手紙でした。教科書は全部学校に置いてました。手紙は、場所こそ取りますが今でも好きな時に読み返せます。でも、ビデオテープやカセットテープを再生出来る機械は、今となればリサイクルショップとかにしかないし、その内どこからも無くなるでしょう。寂しい事ですが、それと同時に、音の悪いテープやビデオの汚い映像を見ていられなくなった自分自身にも、寂しさを感じる今日この頃です。

そんな訳で、幾つかのスッタモンダを経て僕たちは高校を卒業して、それぞれの未来へ向って三崎町を離れた訳ですが、あれから10年経った今、その内の半分近くはまた三崎町に戻って生活しています。
その事に対して「でもどり」だと嫌味を言う人も居ますし、実際に僕も「でもどり」だけはしたくないと思っていた時期もありました。だけど、卒業して10年が経ち、一通り世の中を見ている間に考え方が変わりました。
出戻る人たちにも、それなりの志があってそうしている訳で、自分で納得した上での行動である。
そう感じられるようになりました。ただ、そう感じた理由には「志・納得」と言った精神的な部分もありますが、情報社会となった今では、日本中のどこに居ても変わりなく情報を得られて、情報を発信できると言う時代の変化もあります。

ところが、僕は今の所、出戻る気はありません。
中学・高校時代につるんでいた人たちが、地元で毎晩一緒にワイワイ酒を飲んでいる様子を見ると、若干の羨ましさを感じます。だけど自分はまだそうすべきじゃないと、考えている所です・・・☆

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赤ジャージの詩人・河野広
posted by 河野 広 at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐田岬のすゝめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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